並木良和さんに教わった「あるがまま」の大切さ
並木良和さんが大切にしている「あるがまま」という言葉は、私にとって自然体で生きることを象徴しています。
自分を取り繕ったり、外側の評価を気にしたりしないで、そのままの自分を認める行いだと感じています。
ところが、この「あるがまま」という表現は、単に自我やエゴをむき出しにすることと勘違いされる場合があるのです。
「自分らしく振る舞えばいい」と考えているうちに、周囲に対する配慮をすっかり忘れてしまうというケースを目にすることがあります。
私自身も、過去に「これが私なんだからいいじゃない」と開き直ってしまい、人の気持ちを置き去りにしたことがありました。
そうした経験を振り返ると、ただのエゴを「あるがまま」と言い張るのは危険だと実感しているのです。
並木良和さんによる「あるがまま」とは、自分の本質とつながるということ。これは自我の欲求だけでなく、自分自身に内在する”愛”を基盤にすることだと感じます。
そこに「他者を含めた全体の意識」が入ってくることで、単なるわがままとは異なる姿勢が生まれるのです。
私が日々の生活で「あるがまま」の在り方を意識するときは、「自分だけ楽をしたいからこうしたい」という一方通行な思考に陥っていないか、自分の内面を丁寧に見つめるようにしています。
自我やエゴが前面に出てしまうと、どうしても周囲との摩擦が増え、それが自分にも返ってくると痛感しているのです。
並木良和さんの話を聞いていると、「あるがまま」とは単に自由奔放になることではなく、「愛をベースにした自分らしさ」が自然に滲み出るような状態を指しているのだと感じます。
自分の熱意ややりたいことを周りにきちんと伝え、「だから協力してほしい」というように相手の反応も含めて配慮することが、本当の「あるがまま」ではないでしょうか。
私はそういうコミュニケーションが生まれるときに、「自分と相手がつながっている」という実感がわいてくるのです。
結果として、ちょっとしたすれ違いがあっても、愛情や理解で補うことができ、お互いに気持ちよく過ごせる時間が増えると感じています。
自分勝手かどうかの見極めは難しいですが、そこを注意深く観察することこそが、本当の自己理解につながるのだと捉えています。
並木良和さんが伝える「自分軸」の理解
並木良和さんの教えを読み解くと、「自分軸」とは一人きりで好き勝手に生きることを指すのではないと感じます。
むしろ、他者とつながることを拒否せず、自分の中心にある本質や愛を踏まえて行動する状態のことを指すように思えるのです。
外側の環境や他人の意見に左右されるのではなく、自分の内側にある大切な価値観を土台にしながら、かつ周りの様子にも目を配るイメージです。
私がこれを実生活で意識しているときは、自分が何かをするときの「なぜその行動を選ぶのか」を丁寧に問いかけるようにしています。
例えば、あるプロジェクトに参加しようとするときに、「純粋に面白そうだから」「自分の力で何かを成し遂げたいから」という軸があれば迷いにくいです。
逆に、「みんながやっているから」「ここで断ったら嫌われそうだから」といった外的な理由が主になると、内側からどうしても違和感が生まれます。
そういうときは一度立ち止まって、自分の中心がどこにあるのかを改めて探るようにしているのです。
並木良和さんは、この「自分軸」の大切さを繰り返し伝えているように感じます。
それは、人間関係や集団の中で自分を見失うことを防ぎ、自分らしさを健全に保つためのヒントだと考えています。
私の経験では、自分の感覚に正直になり、自分と相手の両方に尊重の意識を持つと、対立が起こりにくくなるのです。
結果として、よりスムーズに協力関係を築けると感じています。
自分軸を確立することは、わがままとは違うけれども、単に流されるだけの生き方でもないという、ちょうど中庸を保つ在り方ではないでしょうか。
並木良和さんの教えに見る「わがまま」と「愛」の違い
並木良和さんの言うわがままな行動とは、「自分さえよければいい」という切り離された意識の表れとのこと。
私も過去に、「自分さえ満足できれば他はどうでもいい」と考えたことがありました。
しかし、実際にそのまま行動した後、他人の困惑した顔を見て「これは本当に自分の望んでいた結果なのだろうか」と自問したことを覚えています。
欲求を押し通すだけでは、どこかで不快感や罪悪感が発生しやすいと実感しているのです。
並木良和さんは、わがままとの違いとして「愛がベースにあるかどうか」を指摘しているように感じます。
愛が根底にある「あるがまま」や「自分軸」は、自己満足だけにとどまらないのです。
たとえば、自分がやりたいことに周囲を巻き込むなら、その人たちが感じる戸惑いや不安に寄り添う姿勢が自然と生まれます。
「協力してほしい」と伝える前に、相手がどう思っているかを考えるのです。
私はこの姿勢こそが、愛に基づいた行動だと捉えています。
一方、わがままは自分の要求を通すことがゴールであり、周囲の気持ちは視界から外れやすいです。
同時に、わがままを全否定するわけではありません。
ときには自分の欲求を満たすことも大事だと感じます。
ただ、それを他者とまったく共有しないまま押し通すと、摩擦が大きくなるばかりか、自分自身も孤立しがちです。
私は以前、自分の趣味に没頭しすぎて周りとのコミュニケーションを疎かにしてしまい、後で大きな溝を感じたことがあります。
そうしたとき、たとえば「私がやっていることに興味はある?」と声をかけてみるだけで、相手から「そんなことをしていたの?」と興味を示され、意外な形で理解が深まることがありました。
自分から相手に手を伸ばす余地があれば、わがままとは呼ばれずに済むのではないでしょうか。
愛があるかないかは、最終的には自分の内面を見つめるしか方法がないと考えています。
声高に「愛を持って行動しているんだ」と言い切っても、本人がそれを実感できていなければ意味がないのです。
私も、口では「みんなのため」と言いつつ、内心では「早くこれを済ませたい」と焦っていることがあります。
そうした心の動きに気づいたときは、少しブレーキをかけて自分の思考や感情を整理するようにしています。
そうすると、自然と自分の意図に透明感が出てきて、関わる人たちにもクリアな形で伝わりやすくなると感じているのです。
並木良和さんから私が得た気づき
並木良和さんの教えに触れた結果、私が最も大きく変化したのは、自分が行動するときに「自分の本質とつながっているか」を問う姿勢が身についたことです。
これまでは「なんとなくやりたいから」「皆がこうするから」といった曖昧な理由で行動を決めがちでしたが、今は「私は本当にこれを選びたいのか」「そこに愛はあるのか」という問いを大切にしています。
この問いをもつようになってから、自分の中にある違和感に気づきやすくなりました。
たとえば、どうしても気乗りしない話があれば、その理由を掘り下げて「周囲に合わせる必要があるから嫌々参加しようとしているだけかも」と自覚するのです。
一方で、その気づきが増えたことで、周囲との関係をどう調整するかという新たな課題も見えてきました。
自分の感覚がはっきりしてくると、それまで流されてきた部分が明確に見えます。
そうなると、「もう少し自分の希望を伝えてみようか」と勇気を出して話す場面が増えるのです。
その際には、相手が戸惑わないように言葉を選ぶ必要があります。
「これをやりたいから一緒にやってくれない?」という形で、相手を含んだコミュニケーションを行うと、自分がやりたいことも周りが抱える不安や疑問も共有できるので、より良い理解を得やすいと感じています。
並木良和さんのメッセージを踏まえて、私は「自分を大切にする」と「他者を尊重する」を同時に成立させる道があると捉えています。
自分の本質に素直になることは、まったく自己中心的な態度とは違います。
むしろ、周囲への配慮が自然に芽生えるのが本来の「あるがまま」だと考えているのです。
そういう視点を持つようになってから、以前より人間関係が楽になりました。
自分の意図をはっきり伝えることで生まれる衝突は、実はそれほど怖いものではなく、お互いに本音を知るきっかけになるケースが多いと感じています。
もちろん、私自身まだ試行錯誤の段階で、すべてが円滑にいくわけではありません。
でも、「あるがまま」「自分軸」「わがままとの違い」を意識するようになってから、人との関わり方を見直すチャンスが増えました。
こうした学びは、日々の何気ないコミュニケーションの中でこそ生きてくるのです。
たとえば、友人とランチを決めるだけでも、自分の希望を伝えつつ相手の好みも聞くように心がけています。
小さな場面から積み重ねていくことで、本当の意味での「あるがまま」が身につくのではないでしょうか。
私にとって並木良和さんの教えは、自分と他者をつなぐためのヒントがたくさん詰まっています。
日常生活でつまずく瞬間は、往々にして「自分軸」と「周りを思いやる視点」のバランスを失ったときに起こると感じます。
だからこそ、並木良和さんの言葉を参考にしながら「あるがままってどういうことだろう」と自問し、そこに愛があるかを探るプロセスを何度でも繰り返す価値があるのだと考えているのです。
日常に根づく実践こそが、自分の在り方を変えていく鍵になると思っています。
自分自身をないがしろにせず、かといって周りをおざなりにもしない。
そんな絶妙なバランスを模索する道こそが、私には心地よい人生の歩み方だと感じています。